世代間認知不協和

コミュニケーションを媒介するサービスにとって、そのコミュニケーションがどのように育まれているかという点について深い知見を得るというのはとても重要なことだ。コミュニケーションのスタイルというのは日々変化するもので、何が正しくて何が正しくないという知見は簡単に変化してしまう。この変化をとらえていくということは非常に難しい。

最近、Willcomが誰とでも定額、連続通話時間が10分以内の電話はすべて定額の範囲に収まるというプランを発表した。Willcom内通話の定額は以前からあって、2時間45分とかそのあたりで定額がいったん打ち切られるといったようなものだったと記憶している。

ソフトバンクウィルコムのケータイの無料電話が流行るにつれて、一部の中学生たちが面白い使い方をしているという話を聞いたことがある。学校から帰るとすぐに中のよい友人と通話状態にして、とくに話すことがなくても常につなぎっ放しにしているというようなものだった。

思えば、自分の世代は小中のころは、FAXがそういった役割を担っていた。中のよい友人とFAXでいろいろなやり取りをしていた。当然通話料がかかるが、電話をつなぎっぱなしよりも継続的なコミュニケーションがとれた。FAXを欲しいとこのとき以上に思ったことはなかった。高校のときは、携帯メールで、いつのまにか知らない話題が周囲で共有されていることに気づき、またも携帯がほしくなったものだった。大学時代のコミュニケーションの中心はmixiWindows Messengerだった。Skypeをつなぎっぱなしで、家にいながら友人と飲み会をしたのは大学院の頃。

それぞれのメディアで、「あるあるネタ」が生まれては消えていった。それはその世代そのときにしか感じられない経験であった。そういったコミュニケーションを介在するサービスに関わりたいと思ったのは、そういったさまざまな原体験に基づいているのかもしれない。

先の中学生のコミュニケーションスタイルを自分は追体験できていない。NintendoDSすれ違い通信をしたり、公園でバトルしている子供たちに自分はなることはできない。モンハンを同僚と楽しむのとはまた別の何かがあるはずだと思う。

同じように自分の体験を前の世代が体験することができていない。そこに認知不協和を呼ぶことがあるのだろう。実際年を取るにつれて、今現在の若いユーザのコミュニケーションのあり方を認識するのが難しくなるという感覚はある。そこに恐怖がある。自分の感覚の貯金を切り崩していく感覚だ。

30代、40代で今現在をとらえている人はとても少ない。そういった希有な人に決まって聞くのはどうやって、今現在をとらえているんですか?という質問だ。答えも要約すれば一つに決まっている。若い人と話すことだ。と。

これには少しばかりの反駁も合った。もう少し論理的なアプローチがあるのではないか。分析的、定量的に今現在を知るというアプローチもあるのではないかと。大筋は今でもそう思っている。だが、実際の所どうだろうか。統計は因果関係を表すものではないのだから、これにも限界があることは少し考えればわかることだ。エビデンスを積むことはできても、そもそもその契機となる仮説構築プロセスは感覚や体験によるものだ。

気がつけば、高校生から10年経っている。貯金がつきるのもカウントダウンが始まっている。このカウントダウンが終わった後、自分の手に残っているものを考えて、日々電車に揺られている。